ソレイユピアノ教室

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音が先に泳ぎ出す~金色の魚~

私はピアノを「勉強の何か」に見立てたり役立てることよりも、「ピアノの技術」そのものとしてとらえています。ですから、ピアノ練習を計画的にというより「理解の追いついていない所にまずはとりかかってみる」という意味の方が強いです。

金色の魚

先日、私は二か月ぶりにレッスンに行きました。今日の譜面は、ドビュッシー「金色の魚」。学生の頃からの憧れの曲です。長いあいだ、私には届かないと決めつけていたのですが、楽譜を見た時、確かに最初は難しそうに感じました。しかし、なじんでいくうちに楽譜を読み込む力が増したと実感しています。

現在私のピアノを指導してくださる先生は、パリ国立音楽院で学んだピアニスト。フランス音楽の響きを身体で理解し、私に適切な方向性を示してくれます。しかも彼女の手は小さく、私と同じなのです。

私はピアノを何か別のことに役立てる勉強のツールとは考えていません。ピアノの練習はピアノを弾くことにしか役立たないと思っています。ピアノを勉強の手段としてとらえることはあまりしませんが、コツコツ練習することの必要性は認識しています。

なぜなら、ピアノは弾くのを中断してしまうと、すぐに技術が衰えてしまうからです。

作曲科時代のピアノには、自由に楽しむ喜びがありました。

しかし8年前に聴力を損なってからのピアノ演奏は大変な道のりでしたが、それが逆に譜読みの力を磨く機会ともなりました。たくさんの楽譜を読み込むうちに、曲が自然と私の頭の中に鳴って、音楽を創り出す原動力になっていることに気づきました。聴力を損なった私が外部音源を聴くことが難しく、譜読みした音にたいして自分の頭の中でしか音を創れなくなっていったからです。

楽しさは必要だけど、どうやって弾く練習を確保するかが大切

私は高校まではピアノ科に所属していましたが、当時の先生は私が楽しく学べるような教え方をしてくれませんでした。私も自分の気持ちを先生に伝えることができず、その結果、ピアノに魅力を感じられなくなり、大学では作曲科に進みました。しかし、皮肉なことに作曲科に移ってからこそ、生き生きとピアノを弾けるようになったのです。

さて、私がピアノのレッスンに通い始めてから、作曲とピアノ演奏の間には明確な違いがあると、より強く感じるようになりました。

私には楽しさが要る。それでも、楽しさだけではないことははっきりしています。
それは、弾く時間をどう確保するかだと思います。

譜面を開き、音の流れを追い、実際に触れてみると、「できない」と思っていたことは単なる思い込みだったと気づきます。確かに弾くことの難しさはあります。楽譜とピアノ演奏の間には壁があります。体になじませていく時間を考えていかなければならないのです。ピアノに慣れ親しんだ時間が多ければ多いほど、弾けるようになっていきます。そして、それらを楽譜を読んだだけでどのぐらいの時間がかかることがわかることが、その曲が「弾けるかどうか」の境目なのです。

そして楽譜上で読んだだけではわからない技術の壁もあります。
それをどう自分の確かな感覚に変えていくか。すべては感覚なので、練習以外に身に着ける方法がありません。

弾けることの喜びの先に、どうやって曲に命を与えていくか

技術的に難しい曲に挑戦することの苦労と、それを乗り越えた時の深い喜びを感じるようになりました。この深い喜びの一つは、優れた指導者からレッスンを受けることで、技術的な悩みや解釈を一人で抱え込まなくて済むということです。大曲になればなるほど、私のようにピアノの技術をあまり磨いていない者は下地が少ないですから本当に苦労するのです。大曲になればなるほど解釈に迷うことが多くありますが、多くの曲を演奏してきたピアニストは実体験に基づいた知見を持っています。それはとても貴重なことだと感謝しています。